光照寺 宮本住職が語る 「我々が生きるということ」 能登半島地震を振り返り | 戸塚区・泉区 | タウンニュース

光照寺 宮本住職が語る 「我々が生きるということ」 能登半島地震を振り返り | 戸塚区・泉区 | タウンニュース

「我々が生きるということ」

 「能登半島地震から1年、犠牲者や被災者の皆様に心より哀悼の意を表します。まさか元旦に災害が起こると誰が思うでしょうか。

 私たちは、今日の一日を過ごし明日もまたそれぞれの用を果たします。それは当然のことと認識していますがそうではありません。

 仏教の真理は諸行無常。すべての物事は時々刻々と変化し続けます。

 さて、お正月から大変厳しいことを申し上げますが、以前お寺の掲示板に『忘れていてもいつか死ぬ』と書きました。私たちの『いのち』は有限です。しかし、常に『死』を意識している人がどれほどおられるでしょうか。

 ここで考えていただきたいのは『死』があるから『生』が輝くのです。死ぬことがあるから生き様が語られるのです。釈尊がお生まれになって最初に発せられたお言葉は『天上天下唯我独尊』。すべての人々のいのちは尊いという意味です。なぜかと言えば『いのち』は有限だからです。

 自殺未遂をした子から『いまの人生はつまらないからリセットしようと考えた』と理由を聞きました。しかし残念ながら生まれ変わりは苦しいことです。生まれ変われば『生老病死』の四苦から、永遠に遁れることはできないからです。釈尊は輪廻転生からの解脱を説いています。生は一度きりだから尊いのです。

 そして、仏教では生と死を分けて考えません。『生死一如』という言葉通り生の延長線上に死があります。私たちは『生』は良い事、『死』は悪い事だと決めつけてしまいがちです。

 しかし、死があるから本当に生き生きと人間は生きられるのです。ともすると、私たちは未来永劫に毎日の生活が続くと思ってしまいます。しかし能登半島地震のように、残念ながら錯覚です。年頭にあたり『常に死がある』と気持ちを新たにしてほしいと切に願います。

 さまざまな困難を乗り越える力は、そこから生まれてくると思います。2025年が皆様にとって良き一年となるようご祈念申し上げます」