第16回 みなさんとお坊さんのおしゃべり会
本日は、宮本住職から『歎異抄』の法話をいたしました。
◆ 『歎異抄』第一条・第二条
『歎異抄』には、親鸞聖人が見つめた“人間のほんとうの姿”が示されています。
私たちの心には、怒り・欲・嫉妬が尽きません。
そんな“どうしようもない私”をこそ、阿弥陀さまは救おうとしてくださる。
そのことが歎異抄の教えの中心にあります。
また、念仏は自分の努力や心がけで称えるものではなく、
阿弥陀さまのはたらきによって称えさせていただくものと示されます。
ここに、自力を離れ、他力にまかせる道が開かれています。
◆ 源信『往生要集』に見る、心の地獄と極楽
源信僧都は『往生要集』で、地獄の苦しみと極楽の安らぎを詳しく説かれました。
しかし、地獄は遠い世界の話ではありません。
怒りに燃えるとき、嫉妬に苦しむとき、人を傷つける言葉を吐くとき
その心こそ、すでに地獄の姿です。
だからこそ、阿弥陀さまの慈悲に包まれた極楽を願う心が大切になります。
◆ 良寛師の一句が教える「無常」
良寛師は、次のように詠まれました。
「散る桜残る桜も散る桜」
この一句は、
すべては移ろい、変わり、やがて散っていく。無常の真実を静かに語っています。
私たちの命も、心も、状況も同じです。
だからこそ、変わらないものに身をゆだねる必要があります。
その「変わらないもの」が、阿弥陀さまの本願です。
◆ 安心と信心の関係
ここが今日の大切なところです。
信心とは、阿弥陀さまの本願を「まこと」と受け取った心。
「こんな私をこそ救う」という願いを、そのままいただいた心です。
安心とは、信心をいただいたときに自然と生まれる、
心の落ち着き・揺るがない安らぎです。
- 信心=救いを受け入れた心
- 安心=その結果として生まれる安らぎ
安心は努力して作るものではありません。
信心が定まると、ふっと心が軽くなり、
「もう大丈夫だ」と思える静かな安らぎが広がっていきます。
◆ 日常の中で味わう安心
悩みや不安が押し寄せるとき、
どうぞ「南無阿弥陀仏」と称えてみてください。
それは、自分一人で抱えていた苦しみを、阿弥陀さまに預ける行為です。
良寛の句のように、すべては散りゆく無常の世界だからこそ、
変わらぬ本願に身をまかせるとき、心にそっと安心が訪れます。
◆ 結びに
歎異抄も、往生要集も、良寛の句も、無常の中で、どこに身を置くのかを私たちに問いかけています。
阿弥陀さまの本願をいただくとき、信心が定まり、その信心から安心が生まれます。
どうか皆さまが、日々の生活の中で、阿弥陀さまの慈悲にふれ、安心を味わわれますように。
南無阿弥陀仏。


