住職の法話 第37回 弥陀の慈悲

私たちは「慈悲」という言葉を聞くと、どんなことを思い浮かべるでしょうか。

困っている人に手を差し伸べる。
苦しんでいる人の話を聞く。
人に優しくする。

確かに、それも慈悲でしょう。

仏教では、「慈」は人の幸せを願う心、「悲」は人の苦しみを取り除こうとする心だといわれます。

しかし、私たちはいつでも人に優しくできるでしょうか。

家族に腹を立てることもあります。
人の成功を素直に喜べないこともあります。
自分を傷つけた人の不幸を、心のどこかで願ってしまうことさえある。

「人には優しくしなさい」と言われれば、その通りだと思う。けれども、そう思った通りに生きられない。

それが私たちではないでしょうか。

親鸞聖人は『歎異抄』の中で、

「慈悲に聖道・浄土のかはりめあり」

と述べられています。

人間の努力によって慈悲を実践していく道もある。しかし、浄土の教えにおける慈悲とは、それとは違う。

では、弥陀の慈悲とは何でしょうか。

阿弥陀如来は、善い人だけを救おうとされたのではありません。

「立派な人になったら救ってあげましょう」
「人に優しくできるようになったら迎えましょう」

そういう条件をつけられなかった。

怒り、妬み、愚痴を抱え、失敗を繰り返し、ときには人を傷つけてしまう。

そんな私たちを見て、

「それでもあなたを見捨てない」

と願われた。

それが弥陀の慈悲ではないでしょうか。

考えてみれば、私たちが「自分は人から見捨てられた」と感じるときがあります。

家族から理解されない。
友人から離れていかれる。
仕事で必要とされなくなる。

そんなとき、人は「自分には価値がないのではないか」と思ってしまいます。

しかし、阿弥陀如来の眼差しは違います。

人から必要とされるから大切なのではない。
何かができるから大切なのでもない。

何もできなくなっても、誰からも必要とされなくなったと思っても、それでもあなたは私の大切な人だ。

その願いが、南無阿弥陀仏という声になって、私のところまで届いている。

だから念仏は、私が仏さまに向かって「助けてください」とお願いする言葉だけではありません。

南無阿弥陀仏と聞こえてくるところに、

「大丈夫。あなたを見捨てない」

という弥陀の願いがある。

私たちは慈悲深い人間になりきれません。

だからこそ、弥陀の慈悲に遇う。

そして、弥陀から慈悲をいただいた者が、ほんの少しずつでも、人の痛みに気づけるようになる。

苦しんでいる人に、すぐ答えを出さなくてもいい。

「つらかったね」と声をかけるだけでもいい。

誰かの話を、最後まで聞くだけでもいい。

それは、私が立派になったからできるのではありません。

「この私もまた、見捨てられない者として生きている」

と知らされたからこそ、目の前の人もまた、見捨ててはいけない人だと思える。

弥陀の慈悲は、遠いところにあるありがたい話ではありません。

今日も私の弱さを知りながら、私を見捨てずに呼び続けてくださっている。

南無阿弥陀仏。

その声を聞きながら、今日一日を生きていく。

そこに、弥陀の慈悲に包まれて生きる私たちの姿があるのではないでしょうか。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ 合掌