住職の法話 第35回 不断煩悩得涅槃
タイトル「不断煩悩得涅槃」(ふだんぼんのうとくねはん)とは。
「煩悩は悪者なのでしょうか」
「煩悩」という言葉を聞くと、皆さんはどのような印象を持たれるでしょうか。
「欲張ってはいけない」「怒ってはいけない」「人を妬んではいけない」。そんな、人間の悪い心を指す言葉だと思われている方も多いでしょう。
確かに仏教では、欲・怒り・愚かさを「三毒の煩悩」と呼び、人を苦しめる原因と教えています。
けれども、煩悩はただの悪者ではありません。人間が人間として生きていくために、どうしても必要なはたらきでもあります。
たとえば、お腹がすくから食事をいただきます。眠いから休みます。寒いから衣服を着ます。家族を大切に思うから守ろうとします。よりよく生きたい、少しでも前に進みたい、安心して暮らしたいと思う心も、みな煩悩のはたらきです。
もし煩悩がまったくなければ、人は食べることも、働くことも、誰かを思いやることもできません。生きる力そのものが失われてしまうでしょう。
ですから煩悩は、私たちを苦しめる面を持ちながらも、同時に生きるための原動力でもあるのです。
けれども、その煩悩が多すぎると、今度は弊害が出てきます。
もっと欲しい、もっと認められたい、もっと勝ちたい、もっと自分が正しいと思いたい。そうした思いが強くなりすぎると、心は落ち着かなくなり、人と比べて苦しみ、怒りや嫉妬に振り回されてしまいます。
本来は生きるための力であったはずの煩悩が、いつの間にか私たちを縛り、苦しめるものへと変わってしまうのです。
浄土真宗では、煩悩を「なくしてから救われる」とは申しません。正信偈には「不断煩悩得涅槃」とあります。これは、煩悩を断ち切ることができないこの身のままで、涅槃を得るという、まことに深い教えです。
例えば、朝の通勤電車で誰かにぶつかられ、思わず腹が立つことがあります。友人が自分より成功していると聞けば、羨ましく思うこともあります。美味しいものを食べたい、少しでも楽をしたい、お金があれば安心できる。そうした心は、誰にでもある自然なものです。
「そんなことを思ってしまう私はダメな人間だ」と、必要以上に自分を責めることはありません。
親鸞聖人は、ご自身のことを「煩悩具足の凡夫」と表現されました。
「煩悩具足」とは、煩悩をたくさん抱えた人間という意味です。
それは、「私は立派な人間だから煩悩はありません」ということではなく、「修行をしてもなお、怒りも欲も愚かさもなくならない私です」という、深い自己告白でした。
人は、自分の弱さにはなかなか気づけません。しかし年齢を重ねるほど、「思い通りにならない自分」「腹を立ててしまう自分」「人と比べて落ち込む自分」に出会います。
実は、その気づきこそが仏教の出発点なのです。
「煩悩をなくそう」と力んでも、なかなかなくなるものではありません。むしろ「なくさなければ」と思うほど、自分を苦しめてしまうことがあります。
正信偈の「不断煩悩得涅槃」は、まさにその私たちに向けられた言葉です。
煩悩があるから救われないのではありません。煩悩を抱えたままの私を、そのまま見捨てることなく、阿弥陀さまがはたらきかけてくださるのです。
だから安心してよいのです。
怒ってしまう日があっても、欲に振り回される日があっても、「だから私は救われない」ということではありません。
むしろ、そのような自分だからこそ、阿弥陀さまのお慈悲が向けられているのだと、浄土真宗は教えています。
煩悩は、決して自慢できるものではありません。しかし、無理に隠したり、飾ったりする必要もありません。
ありのままの自分を知り、ありのままの自分が阿弥陀さまに抱かれていることを聞かせていただく。その安心の中で、人は少しずつ人に優しくなり、感謝を忘れずに生きることができるのではないでしょうか。
私たちは煩悩をなくして仏さまに近づくのではありません。
煩悩を抱えたまま、阿弥陀さまのお慈悲に照らされて生きるのです。
「不断煩悩得涅槃」とは、そのままの私が救われるという、浄土真宗の大切な教えなのです。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ 合掌

