住職の法話 第36回 四聖諦

『四聖諦(ししょうたい)または四諦(したい)とは。』

まず「諦」と言う字は一般的には「あきらめる」と使う場合が多いのですが、仏教で「諦」と使うと「あきらかにする」と言う意味になります。ですから四聖諦とは四つの聖なる事をあきらかにすると言う意味です。

四聖諦は、釈尊が「人間の苦しみをどう理解し、どう苦しみから離れていくか」を整理した、仏教の基本中の基本です。

難しく言えば「苦・集・滅・道」ですが、病気の診断と治療にたとえると非常にわかりやすいです。

① 苦諦(くたい)「人生には苦しみがある」
※「苦」とは何かあきらかにする。

まず釈尊は、人間の人生を冷静に見ます。

生きていれば、思い通りにならないことがあります。

• 老いる
• 病気になる
• 死ぬ
• 愛する人と別れる
• 嫌いな人とも付き合わなければならない
• 欲しいものが手に入らない
• 手に入れたものも失ってしまう
(これは以前説明した四苦八苦です。)

これを「苦」と見ます。

ここで大切なのは、「人生は全部苦しい」と言っているのではないということです。

楽しいことも、嬉しいこともあります。しかし、その喜びさえも永遠には続かない。そこに人間の苦しみが生まれる。

つまり、

「人生には、思い通りにならないという苦がある」

という事実を認めるのが苦諦です。

② 集諦(じったい)「なぜ苦しむのか」
※苦の原因を「集」めて「あきらかにする。」

では、なぜ私たちは苦しむのでしょうか。

その原因を探るのが集諦です。

釈尊は、その根本に「渇愛(かつあい)」を見ました。

「こうなってほしい」
「こうでなければならない」
「もっと欲しい」
「失いたくない」

という、対象に対する強い執着です。

たとえば、

「子どもには自分の思うような人生を歩んでほしい」

という願いそのものは自然です。

しかし、現実がその通りにならないと、

「なぜ言うことを聞かないんだ」
「こんなはずではない」

と苦しくなる。

つまり、現実そのものだけではなく、「現実はこうあるべきだ」という自分の思いが苦を生み出すわけです。

③ 滅諦(めったい)「苦しみはなくせる」
※苦の原因がわかればそれを「滅」する方法があきらかになる。

ここが非常に重要です。

釈尊は、

「人生には苦がある。だから諦めなさい」

と言ったのではありません。

苦の原因である執着を離れることによって、苦から解放された境地があると説きました。

それが滅諦です。

たとえば、

「絶対にこうでなければならない」

という握りしめた心を少し手放す。

すると、同じ現実でも心の苦しみ方が変わってくる。

ですから四聖諦は、単なる悲観論ではありません。

「苦しみには原因があり、その原因を離れることで苦を超えていくことができる」

という、かなり前向きな教えなのです。

④ 道諦(どうたい「では、どうすればいいのか」
※苦の原因がわかり滅する方法が分かればそれを実践することができる。

最後に、

「では、どうやって執着を離れるのか?」

という方法を示したのが道諦です。

その具体的な実践が有名な八正道です。

正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定。(以前の法話で説明しました。)

つまり、ものの見方、考え方、言葉、行動、仕事、努力、心のあり方、精神統一などを整えながら、智慧を身につけていく。

四聖諦を一言で言えば

苦がある。
苦には原因がある。
苦を離れることができる。
そのための道がある。

これは、医者にたとえると、

病気がある → 原因を調べる → 治る可能性がある → 治療法がある

という構造です。

だから四聖諦は、単なる哲学ではなく、「人間の苦しみをどう扱うか」という釈尊の実践的な教えなんですね。

そして、ここから浄土真宗を見ると面白いところがあります。

釈尊は「苦の原因を見つめ、それを離れる道」を説かれた。しかし親鸞聖人は、自分自身を見つめたとき、「では私は、自分の力で煩悩を断ち切れるのか」というところで深い自己認識に至る。

そこで出てくるのが、自力では煩悩を断ち切れない凡夫を、そのまま救おうとする阿弥陀如来の本願です。

ですから、四聖諦を理解しておくと、なぜ親鸞聖人が「自力」ではなく「他力」を説かれたのかも、かなり見えやすくなります。

なんまんだぶ なんまんだぶ、なんまんだぶ 合掌