秋彼岸特別講演会
光照寺本堂にて「秋彼岸特別講演会」を開催しました。
今回のテーマは、
「生きにくい世の中の歩き方」。
私たちは日々、人間関係や仕事、家族のこと、将来のことなど、さまざまな悩みを抱えながら生きています。
「どうして、こんなに生きづらいんだろう」
「もっと頑張らなければ」
「もっと前向きに考えなければ」
そう思っても、思うようにならないことはたくさんあります。
けれども、「生きにくい」と感じているのは、自分だけなのでしょうか。
釈尊が最初に見つめたもの
仏教を開かれた釈尊が見つめられたものの一つが、私たち人間の**「苦」**でした。
生きること、老いること、病を得ること、死を迎えること。
愛する人との別れや、嫌いな人との関わり。
思い通りにならないこと。
私たちが人生の中で出会う、さまざまな「苦」です。
ここでいう「苦」は、単に痛みや苦痛だけを意味するものではありません。
「こうなってほしい」という自分の願いと、現実との間に生まれるズレ。
自分も、他人も、世の中も、「こうあってほしい」と願うけれど、現実はなかなか思い通りにはなりません。
そこに、私たちの「生きにくさ」が生まれてきます。
だから仏教は、苦しんでいる人に対して、
「あなたの生き方が下手だから苦しいのだ」
とは考えません。
むしろ、苦しみを抱えて生きている人間の姿を、そのまま見つめるところから始まります。
苦しみをなくすのではなく、苦しみとの付き合い方を考える
講演では、釈尊が説かれた**四聖諦(ししょうたい)**にも触れました。
「苦がある」
「苦には原因がある」
「苦から離れる可能性がある」
「そのための道がある」
これは難しい教義として覚えるものではなく、苦しんでいる人間を見つめた釈尊が、**「では、この苦しみを抱えながら、私たちはどう歩いていけばよいのか」**と示された教えとして捉えることができます。
人生から苦しみをすべてなくすことはできません。
だからこそ、苦しみをゼロにすることではなく、苦しみを抱えた自分と、どう付き合っていくのか。
そのことを考えることが、仏教の教えを聞くということなのかもしれません。
変わっていく人生をどう受け止めるか
仏教には、**「諸行無常」**という教えがあります。
人も、身体も、仕事も、家族との関係も、財産も、私たちを取り巻く環境も、ずっと同じではありません。
変わっていくこと、失っていくことを、私たちは時に「失敗」や「不幸」と捉えてしまいます。
しかし、仏教は、変わるものを変わらないものとして握りしめてはいないか、と私たちに問いかけます。
「変わってしまったこと」だけを嘆くのではなく、
「変わらないでほしい」と願っていた自分の心に気づく。
そこから、人生の見え方が少し変わってくるのかもしれません。
「自分」は自分だけでできているのではない
また、仏教の**「諸法無我」や「縁起」**の考え方から、私たちが決して一人だけで生きているのではないことについても考えました。
私たちは、家族や友人、仕事、地域、社会、そしてこれまで出会ってきた多くの人や出来事との「縁」の中で生きています。
だからこそ、何か問題が起きたときに、
「全部、自分の責任だ」
と一人ですべてを背負い込む必要はありません。
「自分の力だけで生きている」と思っていた私たちも、実は多くの人やものに支えられて生きています。
そのことに気づいたとき、自然と出てくる言葉があります。
「おかげさま」
自分一人の力でここまで来たのではない。
目には見えないものも含め、たくさんのご縁に支えられて、今の自分がある。
そのことに気づくことも、仏教の教えが私たちに与えてくれる大切な視点です。
「もっとちゃんとしなければ」と自分を責めてしまう私たちへ
真面目な人ほど、
「もっと頑張らなければ」
「もっと立派にならなければ」
「こんな自分ではいけない」
と、自分自身を責めてしまうことがあります。
しかし、仏教は「立派な人間になったら救われる」という教えではありません。
怒ることもある。
妬むこともある。
欲しがることもある。
人から認められたいと思うこともある。
そうした煩悩を抱えているのも、私たち人間の姿です。
「煩悩がある自分はダメだ」と、さらに自分を責めるのではなく、
「自分には、こういう心があるのだ」と気づいていく。
自分の弱さや愚かさを見つめるところから、仏教は始まります。
自分にも、他人にも、少しやさしく
そして、そこから慈悲についても考えました。
誰かに腹を立てたとき、
「この人にも、この人なりの苦しみがあるのかもしれない」
自分自身に腹を立てたとき、
「自分もまた、思い通りにならない人生を生きているのだ」
そうやって、自分にも他人にも、ほんの少し目を向けること。
慈悲とは、何でも許すことではありません。
苦しんでいる存在を、苦しんでいるままに見つめること。
その眼差しは、他人に向けるだけでなく、自分自身にも向けられるものではないでしょうか。
「ひとりで何とかしなければ」を手放す
私たちは、ときに「自分のことは自分で何とかしなければ」と考えます。
けれども、人間は一人だけでは生きていくことができません。
誰かを支えているつもりで、実は自分もまた、誰かに支えられている。
「自分が頑張って生きている」という一つの見方から少し離れてみると、私たちの人生が、たくさんの「縁」によって成り立っていることに気づかされます。
だからこそ、「おかげさま」という言葉が生まれてくるのではないでしょうか。
秋彼岸に、自分の「歩き方」を見つめる
お彼岸は、ただお墓参りをする季節というだけではありません。
仏さまの教えに触れながら、日々の暮らしを少し立ち止まって振り返り、自分は今、どのように生きているのかを見つめ直す時間でもあります。
「正しい歩き方」を見つけなければならないのではありません。
迷うこともある。
立ち止まることもある。
思うように歩けないこともある。
それでも、私たちは歩いていきます。
その歩みの中で、仏さまの教えが、私たちの進む道を照らしてくださっている。
すべての答えを教えてくださるというよりも、迷い、悩み、立ち止まる私たちを照らし、「この人生を、この私として歩んでいく」ための道をともに見つめてくださっている。
そして、ふと振り返ったとき、ここまで歩いてこられたのも、決して自分一人の力ではなかったことに気づかされます。
家族や友人、出会った人々、さまざまな出来事、そして目には見えない多くのご縁。
その一つひとつに支えられて、今日の自分があります。
「おかげさま」
その言葉を胸に、また一歩、歩いていく。
秋彼岸とは、そんなふうにこれまでの自分の歩みを振り返り、これからの歩みを見つめ直す機会なのかもしれません。
今回の講演では、
生きにくい人生を、生きにくいまま抱えている私たち。
その姿を、今から約2500年前に生きた釈尊もまた、深く見つめていたことをお話ししました。
「生きにくい」のは、あなたが弱いからではない。
迷いながら歩く私たちのそばには、仏さまの教えがあり、その歩みを照らしてくださっている。
そして、今ここにいること自体が、たくさんのご縁に支えられた**「おかげさま」**なのだと思います。
秋彼岸のひととき、皆さまとともに仏さまの教えを聞き、自分自身の人生と、これからの歩みを見つめ直す時間を持つことができました。
ご参加いただきました皆さま、誠にありがとうございました。
光照寺ではこれからも、仏教の教えを身近に感じていただき、日々の暮らしや人生について、ともに考えていただける機会を大切にしてまいります。


