住職の法話 第30回 自死ということについて

自死ということについて
私は平成28年から超宗派の「自死・自殺に向き合う僧侶の会」にて活動しております。
主な活動は毎月の自死遺族との分かち合い、年一回の自死者追悼法要、希死念慮者との往復書簡です。

お子さんを自死で亡くしたお母さんの声を紹介します。
「死にたい。あの子のところに逝きたい。
何で朝目が覚めるのだろう、何であの時わたしはショック死しなかったんだろう。我が子を守ってあげれなかった。
いじめた奴らを関わった奴らを医者に制裁も与えられず恨み辛みを重ねて生き霊になってると思う。
あのね可愛い娘を亡くして、
奴らのせいで自死をしたんだよあの子は。そんなの母親が耐えられるはずない。」

しかし、自死を選ぶ方は遺族になる近い身内の悲しみ、苦しみ、自責の念に思いを馳せることはできないのです。それほどご自身が追い詰められているのです。

10年活動して感じるのは無力感であると言わざるを得ません。
しかし、無力であっても、たった一人でも自死を選ばせない、自死遺族を一人でも作らないことを諦めてはいけないと思っています。

そのためには、生きにくい世の中を作らない、生きにくいと感じる考え方をかえなければならない。私は仏教を通してそれを広く伝えて行かなければならない。確かに世の中は辛い事だらけです。しかし、人によってその辛さは違うのです。それは受け止め方一つで変わるのです。受け止め方を変える方法の中に仏様の教えはあるのです。

以下、仏教が自殺対策として有用であると考えられる点を述べます。
浄土真宗をはじめとする各宗派は長年にわたり「いのち」の問題と向き合ってきました。

第一に、「苦」の理解です。お釈迦さまは人生の本質を「苦」と見つめました。苦しみは「異常」でも「弱さ」でもなく、人間に共通する現実であると説きます。これにより、深い絶望の中にある人が「自分だけがおかしいのではない」と受け止め直す土台が生まれます。

第二に、無常の思想です。すべては移ろうという教えは、「今の苦しみも固定されたものではない」と示します。衝動的な自死は「今」に閉じ込められた視野から起こりやすいですが、無常観は時間的な広がりを回復させます。

第三に、縁起の思想です。人は孤立した存在ではなく、多くの縁に支えられて生きています。この理解は、「自分は無価値だ」という思い込みを和らげ、関係性の中に自分を見いだす助けとなります。

第四に、他力・慈悲の思想です。特に親鸞聖人は、人は自力では立ち上がれない存在であると見つめました。だからこそ「そのままを受けとめるはたらき」があると説きます。これは「頑張れ」と追い込むのではなく、「そのままでよい」と抱きとめる姿勢につながります。

さらに仏教の実践(傾聴・念仏・瞑想)は、衝動を和らげ、感情を客観視する力を育てることが心理学的にも指摘されています。

もちろん、仏教だけで全てが解決するわけではありません。医療や心理支援との連携は不可欠です。しかし仏教は、「生きねばならない」という命令ではなく、「あなたのいのちは尊い」という深い受容を示す点において、自殺予防に大きな精神的支えとなり得るのと考えます。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ 合掌