住職の法話 第26回 念仏・現世利益
佛所遊履(ぶっしょゆうり)
国邑丘聚(こくおうくじゅ)
靡不蒙化(みふむけ)
天下和順(てんげわじゅん)
日月清明(にちがつしょうみょう) 風雨以時(ふうういじ)
災厲不起(さいれいふき)
国豊民安(こくぶみんなん)
兵戈無用(ひょうかむゆう)
崇徳興仁(しゅとくこうにん)
務修礼譲(むしゅらいじょう)
『仏説無量寿経』より
註)「仏が行かれるところは国も町も村も、その教えにさからうようなことはない。そのため世の中は平和に治まり、太陽も月も明るく輝き、風もほどよく吹き、雨もよい時に降り、災害や疫病などもおこらず、国は豊かになり、民衆は安穏にくらし、軍隊や武器をもって争うこともなくなる。人々は徳をもって思いやりの心で、あつく礼儀を重んじお互いにゆずり合うのである。」
このお経はたとえばお寺の落慶や家を新築した時の上棟式や竣工式で使います。まぁ、世間では圧倒的に神主さんによる地鎮祭が多いかと思いますけど、仏教でも地鎮式をやります。私は自宅を新築した時は自分で拝みましたし、光照寺建立の時も拝みました。
さて、人間は生きていると多くの出来事に遭遇します。嬉しいことや楽しいことなら良いのですが、残念ながら悲しい事や辛い事にも出逢います。現世利益(げんぜりやく)と言う考えは予期できない不幸を避けたい気持ちから多くの神社仏閣で昔なら盛んに行われています。しかし、本来の仏教の教えに現世利益はありません。この世に起きる現象は全て「縁起」(原因があって起こるもの)の法則によって必然的に起こるからです。本物の仏教では全ての出来事に対してその本質を冷静に考えてどのように乗り越えるがを考えて行く姿勢が正しい在り方であると説いています。もちろん「方便」として「御守り」を売っているお寺はありますが、それはそれで御守りのおかげで事故に合わないと言う安心を得る事によって心が穏やかになる事で実際に事故が減ると言う効果を狙ったものです。つまり「方便」とはわかりやすい方法で物事を真実に導くやり方であり決して「嘘」と言うことではありません。ただ、私などはそのような考えとして御守りを見ているので買う事はありません。親鸞聖人の時代にも、と言うか超常現象を信じられていた時代はなおさら「加持祈祷(かじきとう)」は流行していましたが親鸞聖人はそのような加持祈祷は無意味だとはっきりおっしゃっています。
有名な逸話として「弁円」と言う山伏(密教の僧侶)が親鸞聖人の念仏の教えのおかげで現在利益である加持祈祷が衰えた怨みで聖人を殺害してしまう計画を立てていたが実際に聖人と対峙してその教えを説かれて念仏に帰依したと言うものがあります。
つまり、必然的に起こる不幸に対して人間はどうする事も出来ないが故に念仏に救いを求めるのです。この念仏はおまじない的なものではなく現実を受け止めた上でどうすることも出来ない事実に対して思わず発せられる南无阿彌陀佛なのです。
人間は弱いものなのです。弱いから現世利益を求め、弱いから何かを救いを求めます。そこに宗教の存在が必要になります。
そして、その究極は人間の死です。死を恐れない人間は居ません。古今東西の有力者がこぞって不老不死を願ってさまざまな行動を起こしてきました。
しかし、死があるから人間は輝けるのです。仮に不老不死が実現したとして無限に生きることは困難でしかないのではないでしょうか。「生」は有限であるからこそ価値があるのです。
以前にも書きましたが阿弥陀如来が修行中に法蔵菩薩であった頃に建てた誓願が「本願」です。この本願の中心と言われている第十八願は「すべての衆生(人間)が成仏しないならば悟りを開かない(如来にはならない)。」そして成仏の条件は「念仏しなさい」と言うものです。つまり、阿弥陀如来が存在する自体で私たちの「成仏」は確定しているのです。
大切なのはその事に気付いて、その事を信じる事なのです。
しかし、「はいそうですか、それなら念仏します」とはならないのが人間の残念なところです。何故なら私たちは「本当に念仏すれば成仏できるのですか?」と言う疑いの心を持っているからです。
善導大師のお言葉に、
自信教人信(じしんきょうにんしん)難中転更難(なんちゅうてんきょうなん)大悲伝普化(だいひでんぶけ)真成報佛恩(しんじょうほうぶっとん)
と言うのがあります。
最初の2行は「自分が信じることを人にも信じさせることは、難しいことのなかにさらに難しいことである」と言う意味です。
次の2行は「それでも阿弥陀如来の大悲は常に私たちを照らしてくれます。
それ故に如来の恩に報いる事が真実の教えであり、それ(念仏の教え)を広めることが本当に如来に報いることである。」と言う意味です。
と言う訳で本日もみんなで念仏しましょう。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ 合掌

