住職の法話 第25回 自死と嘱託殺人

ある門徒さんから自死とALS患者の嘱託殺人について意見を求められたので返信しました。

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自殺と安楽死についてのご提示をいただきました。釈尊の四苦つまり生老病死の最後に来る「苦」はまさに「死」です。釈尊は自殺については「無記」すなわち肯定も否定もしていません。しかし、釈尊の言葉には「おもいわずらうな、なるようにしかならんから、今をせつに生きよ」とあります。この言葉から想えば釈尊は自殺には否定的だったと言えるように思います。

私はボランティアとして自死・自殺に向き合う僧侶の会にて活動をしています。なぜ私が自殺対策の活動をするのかと言えば「せっかく人間としてこの世に生まれたのに生きられる命を捨てるのは単純に勿体ない」と思うからです。その根拠は三帰依文の書き出しに「人身受け難し、いますでに受く」という仏教を初めて勉強したときの言葉が焼き付いているからだと思います。しかし、実際に自殺対策に拘わっていると、こんな境遇で更にこんな状況になって自殺しない方が珍しいと思う事も多々あります。そして自殺をしてしまう人は病院の診断の有無に拘わらず「鬱」状態の限界になって行動を起こしているように思います。

まだ生きられるのに自ら命を絶つのは自己中にしか思えないという意見も聞きますが、ある自殺未遂の女性の話からは飛び降りた記憶は全くないと聞きました。その方の家庭では彼女の自殺未遂は「事故」として現在も扱われています。多くの自殺は自身でも制御できない精神の限界から起きるように思います。

 さて安楽死についてはどうでしょう。安楽死には二種類あります。消極的安楽死と積極的安楽死です。前者は延命治療をせずに人工呼吸器を取り外すような安楽死。これは尊厳死として法的に容認されているようです。しかし、積極的安楽死は6年前に起きた案件ですが、薬物投与によるような場合です。その時のニュースの情報では詳しくわかりませんがALSでは徐々に筋肉委縮して、確かに体が思うように動かず最後は呼吸するための筋肉も衰えて亡くなっていく病気で、想像に絶する苦痛だと思います。殺害依頼をした女性は自分の意志が発信出来るうちにと考えたのかも知れません。しかし、容疑者の医師はどうも積極的安楽死を容認する法整備を望んでいるような活動をしていたような報道をしているメディアもありました。自分のイデオロギーのために薬物投与をしたのなら私は罪に問われるべきだと思いました。

 真宗では蓮如上人が「後生の一大事」という言葉を多用されて御文をつくられました。後生は生きた後、つまり死後という意味です。昔の人々は死んだら極楽なのか地獄なのかを真剣に考えたのでしょう。ですから「一大事」ですね。私たちは死に方は選べません。前述のように自殺は必ずしも自らの意志ではないのです。

 そういうことを考えていると「死」の問題に答えられるのはやはり仏教なのではないかと思います。真宗の教理は「生死を超える道」を教えています。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ 合掌