住職の法話 第9回 二種深信

どのような宗教であっても、「信心」を重要しない宗教はないと思います。しかし、言葉は同じ「信心」でも、その意味内容はそれぞれの宗教によって一様ではありません。その中で浄土真宗の特異性を明確にあらわされたのが二種深信です。

その二種深信とは七高僧のお一人であります善導大師がお説きになったことです。

文字通り二つの事を深く信じるという事です。

その二つとは、

①自分は如何にダメ人間で往生する事などもってのほかで、とても自分が救われるなんて信じられないと言う事を深く信じる。という意味。つまり徹底的に内省する姿勢で、自分の本当のすがたを知らされることです。(機の深信)

②そういうどうしょうもない人間であるからこそ、阿弥陀仏におすがりするしか道は無く、こういうダメ人間だからこそ阿弥陀さまは往生させてくださるのだと深く信じる。という意味。つまり救いようのないダメ人間を救って下さるのが阿弥陀さまだという事を深く信じなさいという事で、阿弥陀仏の願力のすがたを知らされることです。(法の深信)

そしてこの二つは必ずワンセットだよと、蓮如さんが教えてくれてます。

しかしね、結論を申し上げますとこの二つを本当に信じる事など出来ないのです。人間は真実に近づけないと言う事を以前申し上げました。それは煩悩、つまり疑いの心があるからです。

もう少し深く考えます。深信=信心です。浄土真宗の信心は前にも説明しましたが、阿弥陀さまから頂く一心です。皆んながバラバラに自分勝手に何かを信じるという信心ではありません。

そう考えると人間の能力で完璧な信心というものは存在しない、出来ないとなりますね。

なぜなら、なんの疑いの心もなく私は阿弥陀さんに救われて成仏すると思える人、いますか?

偉い坊さんがこれを説いて、あーそうか、そうだったんだ。ストンと腑に落ちて疑いなく信じられますか?

まぁ、出来ませんね。煩悩が邪魔をするからです。

ですからね、これは努力目標なんです。残念ながら達成しない目標ですけどね。これを信じよう信じようと努力するんです。

源信さんの言葉を思い出して下さい。「妄念はもとより凡夫の地体なり臨終の時までは一向妄念の凡夫にてあるべきぞとこころえて念仏すれば、来迎にあづかりて蓮台に乗ずるときこそ、妄念をひるがへしてさとりの心とはなれ。」と言う事です。

いざ往生が目の前に来たときに、ちゃんと日々念仏していれば、疑いの心は翻りさとりの心となります。

それでは、皆さんいつものようにお念仏しましょう。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。合掌