住職の法話 第31回 諸行無常
春爛漫、桜が満開を迎えるこの頃、私たちはその美しさに心を奪われます。淡く咲き誇る花びらは、まるで永遠に続くかのように感じられるかもしれません。しかし、ふとした風に舞い散る姿に、はかない命のありようを見せられます。
親鸞聖人は、
「明日ありと思う心のあだ桜、夜半に嵐のふかぬものかは」
と詠まれました。
「明日もまた咲いているだろう」と思う桜も、夜半に嵐が吹けば一夜にして散ってしまうかもしれない——そのように、私たちのいのちもまた、決して明日が約束されているものではない、という深い無常の自覚がここに示されています。
私たちは日々、「明日もある」「まだ大丈夫」と思いながら生きています。やり残したことや、伝えそびれている言葉があっても、いつか機会があるだろうと先延ばしにしてしまう。しかし、その「いつか」は、本当に訪れるのでしょうか。
桜の花は、自ら散る時を選ぶことはできません。風に任せ、ただその時を迎えます。私たちのいのちもまた同じです。どれほど願っても、時間を引き止めることはできません。だからこそ、この「今」というひとときが、かけがえのない尊いものとして浮かび上がってきます。
無常とは、ただ虚しさを語る教えではありません。むしろ、「今ここに生きていること」の尊さを気づかせてくれる目覚めの言葉です。明日が確かでないからこそ、今日の出会いを大切にし、今この瞬間に心を尽くして生きることが求められているのではないでしょうか。
満開の桜は、やがて散りゆくからこそ美しいとも言われます。その姿は、限りあるいのちを生きる私たちの姿そのものでもあります。散ることを避けられないからこそ、一瞬一瞬が光を放つのです。
どうかこの春、桜の花を見上げるとき、ただ美しさに心を寄せるだけでなく、その奥にある無常の響きに耳を傾けてみてください。そして、「今」を大切に生きる歩みへと、静かに心を向けていただければと思います。
明日があると疑わぬ心に、そっと問いかける桜の姿。そのはかなさの中にこそ、私たちが本当に生きるべき道が、やさしく照らされているのかもしれません。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。合掌


