住職の法話 第21回 教行信証 後序

本日は教行信証の後序(あとがき)のお話しです。少し難しいかも知れませんがお付き合いください。まず、浄土真宗のお坊さんになろうと思う人は必ず教行信証を読んでしかも理解しなければなりません。
僧侶にならない人も浄土真宗のお勉強をしたいと思うならやはり教行信証を読み解いていく必要があります。でも、教行信証はとても難解と言われています。そこで教行信証を読みたいと思うコツをお教えします。皆さんは普通本を読む場合は最初の1ページ目から読みますよね、でもね、教行信証を最初から読もうとすると多分5分もしないうちに眠くなります。難しくてちんぷんかんぷんだからです。しかし、教行信証の場合は一番後ろの後序(あとがき)から読むのがよいのです。何故なら、この後序には親鸞聖人がなぜ教行信証を御製作になられたかと言う理由が感情こめて書かれているからです。

さて、それでは見ていきましょう。

後序 原文)「ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛んなり。しかるに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷ひて邪正の道路を弁ふることなし。
ここをもつて興福寺の学徒、太上天皇[後鳥羽院と号す、諱尊成]今上[土御門院と号す、諱為仁]聖暦、承元丁卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。主上臣下、法に背き義に違し、忿りを成し怨みを結ぶ。これによりて、真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考へず、猥りがはしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて遠流に処す。予はその一つなり。
しかればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆゑに禿の字をもつて姓とす。空師ならびに弟子等、諸方の辺州に坐して五年のきょ居諸を経たりき。」

訳)ひそかにおもってみるに、聖道のいろいろの教団は、生きた行ないと生きたさとりが、もうずっと前からすたれている。これに反し専修念仏の教団である浄土の真宗は、生きたあかしと生きた道が、今さかえている。それなのに古い寺院の僧侶たちは、かえってほんとうの仏教の教の精神に暗く、今の人間に対して何が真実の扉を開き、何が偽りの扉をかまえているか、そのことを知らないでいる。京都の一般の学者も、どれが正しい行ないかについて迷っている。それゆえ、仏教の正しい道である専修念仏と、あやまった路である古い仏教とを、ハッキリ区別できないのである。
こういうわけで、興福寺の学者・僧侶たちは朝廷に奏上をおくった。それは太上天皇(後鳥羽上皇)と今上天皇(土御門天皇)のとき、承元元年二月上旬のことである。天皇と朝廷の貴族たちは法に背き、正しい道理に従わず、いやしい怒りに心をまかせ正しい専修念仏者にうらみをいだいて害を加えた。
 そのため、専修念仏の正しい教えを、さかりに導いた方、源空法師と弟子たちが、ほんとうに罪があるのかないのかを正しく考えようともしない。そして、不法にも住蓮・安楽たちを死刑にしてしまったのである。そのうえ、源空法師や弟子たちから僧としての身分を奪い、流罪人としての名まえを与えて、島流しにした。わたしもそのひとりである。そういうわけだから、もはや、わたしは僧侶でもない。俗人でもない。それゆえ、「禿」という字を、わたしの姓とすることとした。師法然や弟子のわたしたちは、あっちこっちのはしばしの田舎に島流しにされて、五年の苦しい年月を無実の罪の中におくることとなった。

これは、教行信証化身土巻の末巻(ばっかん)にある親鸞聖人が唯一ご自身の思いを述べられた部分です。感情を露わにされたのは教行信証でこの部分だけです。お師匠様の法然上人と共に流罪になったうらみ節です。親鸞聖人は浄土教こそ真実の宗であると言う意味で真宗という表現をされました。

すなわち、親鸞聖人は興福寺や朝廷から受けた謂れのない仕打ちに対して浄土教が如何に優れた真実の教えであるかを何としても立証したかったのです。そのためにこの膨大な教行信証をお作りになったと言えます。

このみ教えによって浄土真宗は現代にまで相続されたと言って過言ではありません。私たちが親鸞聖人の教えをきちんと理解させていただけるのは教行信証のおかげです。

続いて、

「慶ばしいかな、情を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。深く如来の矜哀を知りて、まことに師教の恩厚を仰ぐ。慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。これによりて、真宗の詮を鈔し、浄土の要を摭ふ。ただ仏恩の深きことを念うて、人倫の嘲りを恥ぢず。もしこの書を見聞せんもの、信順を因とし、疑謗を縁として、信楽を願力に彰し、妙果を安養に顕さんと。『安楽集』にいはく、「真言を採り集めて、往益を助修せしむ。いかんとなれば、前に生れんものは後を導き、後に生れんひとは前を訪へ、連続無窮にして、願はくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽さんがためのゆゑなり」と。しかれば末代の道俗、仰いで信敬すべきなり、知るべし。『華厳経』(入法界品・唐訳)の偈にのたまふがごとし。「もし菩薩、種々の行を修行するを見て、善・不善の心を起すことありとも、菩薩みな摂取せん」と。」

慶ばしいからの文章は、自分が人生のどこに立って、いかに生きるかを発見したよろこびをもって述べられた言葉です。阿弥陀仏の本願の世界が、「仏地」「法海」というように、広やかな大地と海で表されています。広い世界を知るということは、同時に自分がどれほど狭い世界で生きていたかに気づくことでもあります。その意味で、心を弘誓の仏地に樹てるとは、自分の狭い物の見方を離れて生きようとする決断が表されています。また、念を難思の法海に流すとは、本願の世界に身をひたし続けようという願いが込められています。

そして、後序の結びに安楽集(道綽)と華厳経が引かれています。

安楽集の部分は、「往生という利益の助けにしていき、そして先の者は後の人を導き、後の人は先の者を訪ねることによって、教えの伝承が止むことなく、限りない迷いの命を救い尽くしてほしいという願いが語られている文章である。」

私見でありますが、道綽禅師が末法の世に置いてたのむべきは浄土門であると言う主張を親鸞聖人は最後の言葉とされたのであろうと思います。

そして、華厳経では「弥陀の誓願にみる、十方衆生、迷いの者たちよ。それは出家者であろうが、在家者であろうが関係ない。すべて末法の世の迷える存在であるのです。」とおっしゃりたくて引用されたと私は思います。

この後序、お味わいください。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ