住職の法話 第20回 方便
よく仏教では方便という詐欺まがいの手法をつかいます。
方便は嘘かと言うと嘘です。嘘ですけどちゃんとした目的を持っています。目的とは真実に近づくためです。なんでそんな面倒な手順を踏むかと言うと、私たち人間は真実には近づけないという性質を持っているからです。
例えば私たちが死んだらば必ず往生しますという真実をお話ししても皆さんは信じられますか?
逆に何故それが真実なのか証拠を見せろと言われますよね。証拠は仏教は紀元前からの歴史を持ち現代まで連綿と引き継がれ無くならないからですとお答えします。
まやかしの宗教であれば長い歴史の中で闇に消え去ってしまうはずです。
しかし、それでも皆さんはホントかよって疑いますよね。その疑いの心こそ煩悩です。つまり煩悩があるが故に真実に近づけないのです。
だからこそ方便という手法を使って真実に近づいて下さいというメッセージを発信するのです。
私が第一回でお話しした信心の話にも方便があります。
なぜ方便を使ってまで真実に近づいて欲しいのか、それが仏教の目的である抜苦与楽への道だからです。
はっきり申し上げますが、法事や葬儀の司式を司るのが坊主の本来の仕事ではありません。
浄土真宗であれば釈尊から相続した親鸞聖人の教えを正しく皆さんにお伝えするのが本質的な役目です。全ての人々の苦を乗り越えて行く事、いわば生死を超えるのが目的です。
法事や葬儀はそういう機縁(機会)を通して命について考えて頂けるように故人(仏様)が授けてくださったチャンスなのです。
全ての人々の抜苦与楽なんてできるわけないだろって思いますよね。そりゃとても難しいですよ。
善導大師という高僧は
自信教人信 難中転更難
じしんきょうにんしん なんちゅうてんきょうなん
(みづから信じ人を教へて信ぜしむること、難きがなかにうたたさらに難し。)
大悲伝普化 真成報仏恩
だいひでんふけ しんじょうほうぶっとん
(大悲をもつて伝へてあまねく化するは、まことに仏恩を報ずるになる。)
とおっしゃっています。
自ら信じてその信心を他の人に信じてもらうことはとても難しいことである。(始めの一行)
しかし、大悲が働いている以上私たち全てにその御心はお伝えくださっているのだから自ずから感謝の気持ちが生ずる。(後半一行)以上直訳
大悲とは阿弥陀さまが私たちに回し向けてくださる御心です。これを回向(えこう)と言います。
親鸞聖人はこの解釈を「仏法を信じて人に教えることはとても難しいけれど大悲とは伝えるものでも、弘めるものでもない。大悲そのもののはたらきによって弘く衆生を化益するとのだ」とされています。
すなわち、私たちには常に阿弥陀さまの大悲が降り注がれているのです。この大悲のことを本願と言います。実感できませんかね。でも、自分の頭で考えるという行為を捨てないでください。
あえて今日難しいこと言いました。
人間死ぬまで勉強です。
もう私の年なら人生経験を経てこのままで良いと考えてる人は申し訳ないですがダメです。
常に新しい気付きを求めてください。それが命をリスペクトするという事です。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ
合掌