住職の法話 第18回 本願

無量寿経には48の誓願が説かれています。阿弥陀さまが如来になられる前のお姿を法蔵菩薩といいます。法蔵菩薩はこれらの48の誓願が成就しなければ悟りを開くことはないと誓っています。悟りを開かないと言う事は如来(仏)にならないと言う事です。という事は、全ての誓いが成就したから阿弥陀さまがいらっしゃると言うことです。
 
さて、これらの本願の内、一番大切とされているのが第十八願です。なので、王本願と呼ばれています。
それでは、十八願の内容を見てみましょう。

「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。」

訳)私が仏になるにあたり、私の国(阿弥陀仏の浄土)に生まれたいと欲してわずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。

この本願のおかげで、何度も申し上げているように私たちは死んだら浄土往生が決まっていますとお話しています。
さて、ここから大事なところです、この念仏をすれば往生できるという点ですが、実は自力の念仏では駄目と言われてますけど、そうではありません。

私の教学の師匠から教えてもらったのですが、この念仏の正体は何かと言う話です。

第十八願の前に第十七願というのがあります。親鸞聖人は諸仏称名の願と名付けました。

十七願とは、
「たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ。」というものです。

訳)たとい私が仏となるにあたり、十方の世界にまします無数の仏たちが、私がこれから完成する南無阿弥陀仏という名号のもつ無量の徳をほめたたえて、十方の一切の衆生に聞かせることができないようならば、仏になりません。

つまりどういう事かと言えばお念仏は既にイヤと言うほど聴かされていたのですよ。

私らの年代では「あたり前田」と言えば「クラッカー」ですよね。
だからね「南無」と言えば「阿弥陀仏」なんですよ。イヤという程、お念仏は全ての仏様方がお称えになっているから私たちの口から自然に出て来るお念仏は既に他力の念仏なんです。

そう言う訳で私たちの浄土往生は決定(けつじょう)してます。
ちなみに、十八願の最後の部分の「ただ五逆と誹謗正法とをば除く。」はおまけだと思って下さい。どんな悪い奴も何でもかんでも往生できるのはおかしいやろ、ってとこから出てきたものなんですね。これを抑止文(おくしもん)と言います。でもこれは方便とお考えください。なぜなら、無条件に救わなければ本願の体をなさないからです。

それではスッキリしたところでお念仏しましょう。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ 合掌