住職の法話 第7回 念仏について

毎回最後に念仏しましょう、とか言っているのでウザいと思われてますかねぇ。でも仕方ないですね、浄土真宗の坊主から念仏取り上げたら坊主じゃなくなってしまいますから。

念仏についても色々能書きたれてますけども、それでも念仏の何が有難いんだかちっともわからんと言う人もたくさんおられますね。

実は念仏がなんだか良くわからなくてもいいんです。訳が分からずでもいいから称えて欲しいんですね。だって御利益あるんですから。

どんな御利益かって?それをお示しする為に1人のお坊さんを紹介します。源信僧都といいます。親鸞聖人より前の平安中期の坊さんです。

昔、社会の教科書に出てたでしょ、忘れちゃいましたか?

そう、往生要集を書いた人です。ちなみに往生要集は読みましたか?

まぁ、たいがい読んでないですね。

往生要集、最初からぶっ飛んでます、まずは地獄の説明から始まります、どんなホラーより怖いですよ、地獄も8種類に分けて詳細に説明して下さっています。地獄の火に焼かれる想像しながら読んだら、めちゃくちゃ怖いです。ホラー好きの方にはお薦めです。

その、源信僧都さんが念仏の有り難さを教えてくださっています。

横川法語というお話しがありまして、そんなに長いお話しではないのですが最後の結論のところを見てみましょう。

原文

「またいはく、妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念のほかに別に心はなきなり。臨終の時までは一向妄念の凡夫にてあるべきぞとこころえて念仏すれば、来迎にあづかりて蓮台に乗ずるときこそ、妄念をひるがえしてさとりの心とはなれ。妄念の内より申しいだしたる念仏は、濁りに染まぬ蓮のごとくにて、決定往生疑いあるべからず。」

現代語訳

「また妄念(迷いの心)は、本来私たち凡夫の身に備わったものです。私たちは妄念の外には別の心などないのです。 臨終(命終わる時)までは、私は妄念の凡夫であると自覚して、一向に念仏すれば、来迎(仏・菩薩が迎えに来る)に出会って、蓮の台に乗る時にこそ、妄念をひるがえして、さとりの心を持つことになるのです。 その妄念を持ったままで称えている念仏は、よごれに浸まない蓮のように、必ず浄土へ往生するのですから、絶対に疑ってはならないのです。」 

あー、感動的な文章ですね、源信僧都大好き。

ね、だから訳わからんでも何でも念仏すればいいんですよ。

それでは今日も、なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ 合掌」